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リレーエッセイ第12弾!

掲載日:2017-7-24 8:39:29

「多くの人々の 支えと交わり有ってこそ存する人生」
           
             岡山大学医学部附属看護学校 18期生 ハビブ 文妙子

ここカリフォルニア、スタンフォード大学の周辺では 赤、白、薄青、黄の花々が夏の訪れをを告げています。
同窓の赤井そのゑさんからリレー・エッセイのバトンを受け、自分の人生を懐かしく振り返って見ました。

小学3年生の時 本でベスビオス火山の噴火で埋もれた古代ポンペイの街 発掘を習った時「海の向こうの国々に行って見る」と心に決めました。勉強部屋だった離れ座敷の古い唐紙4枚に絵の具で思い切り描きたいという願いを受け入れてくれ、「大胆な出来上がりだ」と笑みてくれた母に養され、その部屋から外の自然美を眺めながら未来を夢見た中学高校生時代でした。

看学時代私は 素晴らしい友人、先輩、恩師達に囲まれていました。
特に二人の先輩からは強いインパクトとインスピレーションをいただきました。
新しく開いた脳外科で学生指導だった富田幾枝さんの有される 心のゆとりと回りから一身に受けられる信頼、滲み出る看護の哲学、学ぶ喜びの姿勢・・・に「富田さんから習いたい」と実習中に就職先を決め、卒業後 岡大教育学部養護教員課程を修了し、脳外科に戻って来ました。
もう一人の先輩は丁度その頃 ニューヨーク大学留学から帰国され 初めてお会いした小島操子さんでした。寮に伺ってお話する毎に 尽きぬ勉学心と他の心理を理解し抱擁される器量、謙虚さの奥に秘められた深さと広さ、そして日本の看護向上への情熱・・・を ひしひしと感じました。
当時の脳外科婦長さんは「慶應大学で夏季コースを受けたい意」を話したら「学位をめざすように」と励まし休暇を下さり、後に 留学の意も 「視野を広げて来なさい」と 力づけて下さいました。英語科の宮川誠子先生は故郷を離れての母でお宅に寄って話にふけたり一緒に料理したものです。
数々調べて選んだ二つの大学の内ニューヨーク市のコロンビア大学を 外科教授が強く推薦して下さり決めました。
就職1年足らず、 自力で留学したい私にとって 米国からの奨学金は次2年間の留学を可能で意義深い体験にしてくれました。

1970年3月にやって来たニューヨーク市は 国際色、芸術、自己表現、自立心豊かで、しきたりや 回りの人々の批評に囚われず自己を自由に発揮させてくれる、まるで無限に広がる大草原を疾走する野生の馬の如くに感じさせました。
眼科の松尾信彦教授が同じコロンビア大学で研究に家族で来られており、Mrs.松尾が日本料理を度々作って下さいました。

レイナー教授とボニー講師の下に12カ国から24人の若きナース達が門をくぐって集まりました。
高台に建つ高層レンガ造りの学生寮の私の部屋の窓からはハドソン川と緑の森が眼下に、その向こうにニュージャージー州が広がっていました。
コロンビア大でのプログラムは広い分野を含んだ豊富な内容でした。週末には教授と講師は私達一同を名所に遠出や 自宅に招待、又ニューヨーク市がふんだんに提供する文化を楽しむ様にとブロードウェーのミュージカル、オペラ、バレー、コンサート等のテイケットを割引きで買える手配や国際学生の集いへの案内をして下さり楽しい体験をしました。教授室から徳島大学で教えておられた小島さんにお電話し胸が一杯になり何も話せなかったのを思い出します。
この2年を終了後 大学院に進み修士を修得し 日本に帰り 看護学を教えるのが私の志で, やがてその準備を始めました。

修士課程中は助手講師の職を得、学士課程を教える事も有りました。
渡米後4年、大学院卒業が近着き私は岐路に立ちました。「小島さんと日本で教えたい」と思い続けたこの4年。その一方私をアメリカに引き留める静かな引力が有りました。そんな時 小島さんがメキシコで国際会議を終えて私の所へ寄って下さり、夜が更けるのを知らず話し込みました。翌日は友人と深々と話し合って下さいました。負う期待と自分が持っていた志を完せぬ葛藤、日本の家族、私が持つ 未来への質問と自信・・・全てを受け入れ、賢明な判断と支援をして下さり、私の実家に行って家族に安泰を届けて下さいました。小島さんは私が平和な心でアメリカに自分の基盤を始める事を可能にして下さいました。

時が過ぎ・・・しばらく居た ICU を夫の転勤で去り、その内育児専念が始まりました。 その頃恩師の阿部壽満子先生がアメリカ看護大学のカリキュラムを検索に来られ懐かしく御一緒しました。
下の子が家を離れて大学に進み 遂に仕事に没頭出来る時が来ました。看護学教育、リサーチ、その他数々の新分野が提供されていた中で 臨床が私の心を強く掴んでいました。そこで足を踏み込んだのが 人工腎臓透析でした。科は ICU、病室、入院患者と外来を合わせたユニットでの透析を管理しました。以後 院内教育もし、臨床を離れませんでした。症状変化を予知して防ぎ、即座の判断と対処をし、心を感知し、耳を傾けて聴き、患者の代弁者となり、要すれば厳しくあり・・・これらが私を臨床に引きつけて放しませんでした。
様々な場面の内、こんな一場も有りました。
ある午後スタッフが「婦長さん来て下さい。Mr. Tが透析を拒否し怒鳴っています。」と言って来ました。行ってみると外来透析ユニットで馴染みの Mr. Tが病室から送られて来たベッドに身を起こし険しい表情でいました。48歳の独り身、自己管理に欠ける彼は糖尿病の悪化で両眼全盲と診断され、壊死の為 過去に左膝下切断、今回右足首で切断の為入院。ベッドの横の椅子にかけ 私に即座出来ることは手を彼の腕にそっと置き 静かに「苦しいですね」の一言と沈黙を保つだけでした。彼は表情が和らぎ、喫煙を病室のベランダでする事も「糖尿病に悪い」と禁じられた事、経済的に乏しく手術後は遠くに住む兄夫婦と同居する事を話し始めました。じっと聴きながら、一つ残された楽しみの喫煙をも禁じられた事へと人生への腹立ちと悲惨感、自立に制限のある身体、兄夫婦への気遣い、限られた資源を持つ兄夫婦の重荷、お互いに不便な生活になるであろう事等等を考えると彼の退院後の困難な人生が思われ て静かに涙が頬を伝うのを止めることが出来ませんでした。全盲のはずの彼が突然「婦長さん、泣かないで下さい、自分は大丈夫だから心配しなくてもいいですよ」と・・・。彼が透析を終え病室に帰った後こちらと移転先のソーシャルワーカーが合同して働く準備を直ちに始めました。翌日会議から帰って来ると私の机の上に花瓶にさされた一輪の花が置かれていました。「Mr. Tが 病室から車椅子に押されて婦長さんに届けに来たんですよ」とスタッフが教えてくれました。
仕事に没頭できた満足な十年余でした。

現在は長男家族4人がパリに住み、娘家族3人が近くに住んでいます。四歳になった孫娘の忙しい活動を一緒に楽しみ、伸び伸びと育ってほしく、幼年期の展開していく成長を理解したくて若い母親達と一緒に講義/話合い に出席しています。
小学3年生の時心に決めた世界歩きは 2人で始まり、3人になり、4人になり、やがて2人に戻り、時おり3代3家族の大群になりながら続けています。趣味、家族と親戚、友人との交わりを大切にし楽しむ今日此頃です。

編集後記
今回のリレーエッセイはアメリカ在住のハビブ 文妙子様より届けていただきました。
エッセイを拝見して、知識としては知っていた「人に歴史あり」という言葉が私の中でも色鮮やかに息づいたように思います。タイトルにあるように、多くの人々との交わり、支え合いがあるからこそ自分の人生が素敵なものになるのだという事、そしてそれは国境すら越えるものであるという事を改めて認識させて頂きました。ときわ会の存在が少しでもそれを手助けできるものであれば嬉しく思います。
ハビブ文妙子様、素敵なエッセイをありがとうございます。この場をお借りして御礼申し上げます。

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