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リレーエッセイ第15弾!

掲載日:2019-3-27 22:50:19

      65才の始まり

岡山大学医学部附属看護学校 26期生 井上由美

私は、1976年3月の卒業生で、高知市で母と暮らしています。6年前に退職してから、腎と下肢の障害による在宅生活です。2019年65才で直面した変化は、骨身に堪えます。障害者支援から介護保険への移行です。大きな違いは、応能負担から定率の応益負担に変わり負担増、一方でサービス量が減ることです。訪問看護は30分に半減、訪問リハは3分の2の40分に短縮しました。さらに、同じ内容の家事援助が包括払いになり、この度は現状維持になりましたが15分短縮を提示されました。ケアプラン作成時のサービス担当者会議では、事前の情報に乏しく発言する準備ができません。数年前まで仕事で見えていた世界が、いまや見えにくくなっています。これ以上自分がしてきたことが薄れていく前に、振り返ってみます。
看護学校入学は、多感な時期、家を出て手に職をつけるためでした。臨床実習では、今となれば細かい事柄を思い出せないが、強い拒否反応の嘔気で迷い苦しみました。そんな私を捉えて離さず、自分を見つめる問いを続けてくれた指導と出合ったのを機に、看護を学ぶ強い動機付けを与えられました。お蔭で感動や達成感も得られ、希望にあふれ理想を求めていました。就職した岡山協立病院での6年は、病棟・診療所(外来・訪問看護)を経験し、理想と現実の葛藤の中、周りに迷惑をかけていることに気付かない鈍感でした。次に学んだ日本看護協会看護研修学校(看護教員養成課程)は、尊敬する臨床実習指導者の進学先で、このリレーエッセイに繋がる看学11期生熊谷温子さんと一緒でした。原宿の看護協会会館で過ごした一年間は、卒論までなぜかと問い続ける学習で、勢い立命館大学2部文学部哲学思想コースに進学しました。
1983年29歳で京都に移り、安井病院三交替勤務と月〜土曜日の夜間通学、若い同級生から目が輝いていると言われました。しかし夜勤明けに腰椎椎間板ヘルニアを発症、手術、復職後に退職。卒業一年前の1986年、京都府医師会看護専門学校に就職。准看護師養成と准看護師が看護師になる教育課程の二つの学科は、働き通う昼間定時制でした。授業の準備は、学生が病院診療所にいる問いに応えたく苦戦しました。看護科で卒業生を出した後、IgA腎症の急性憎悪で入院。復職後は、准看護科で卒業生を出し、学校移転で通勤時間が拡大、再び腎悪化し10年で退職しました。
1996年42歳高知に戻り、青い空や実る稲穂に癒されました。求職のため介護支援専門員、診療情報管理士を取得。2003年から高知赤十字病院の“医療なんでも相談”の担当看護師に就職。仕事に役立てるため社会福祉士・精神保健福祉士取得。がん医療相談員の任も加わり、やりがいを感じていたが体力と気力の限界となり10年で退職。
2013年3月退職時には、術後腰椎すべり症による間欠性跛行が強く、杖歩行では電車・バス通勤や就労が無理でした。有料福祉車両の個人送迎で通勤、歩行車による就労、座業に適したワーキングチェアの使用。その間年中風邪を引き、腎機能は低下しました。今は、末期腎不全保存期の尿毒症状に次々直面します。一日の関心事は食事や便通を整える事であり、窓から見える隣の工場と畑の間の小さな空模様です。それでも、社会の動きにはアンテナを張って、国会視聴し慢性腎臓病ガイドラインをテェックし、日々課題に取り組んでいます。 



編集後記
今回リレーエッセイのバトンを引き受けてくださったのは、26期生の井上由美様です。文章を拝見して感じたのは、とにかく前を向いて突き進んできた方だと言う事です。必要な資格を積極的に取りそれを活かして仕事をする姿を、多くの後輩が目標とし、そして後に続いたのだろうと思います。看護や介護を提供する側と受ける側、両方の立場を知るからこそ見えてくるであろうものの一端を垣間見させて頂いた事で、しっかりアンテナを張り情報を得る事の大切さを実感した次第です。
末筆になりますが、リレーエッセイのバトンを引き受けて下さりありがとうございました。この場を借りて御礼申し上げます。
            広報担当 保健学科1期生 内田可菜

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